9月19日、19時58分。仕事帰りに寄ったセブンイレブンの自動ドアが開いた瞬間、鼻の奥で何かを探していた。だしの匂い。しょうゆと昆布が混ざった、あの湯気の匂いだ。レジ横の什器に目をやると、そこはまだ空っぽで、透明なフードカバーだけが所在なさげに乗っていた。
半袖のシャツが、まだ夜風にちょうどよかった。それでも心のどこかは、もうおでんの季節だと思い込んでいたらしい。単純な話で、去年の今ごろ、同じ店で卵とちくわぶを買った記憶があったのだ。記憶というのは律儀なようでいて、けっこう気分屋だ。
レジにいた店員さんに、軽い気持ちで聞いてみた。「おでん、まだですか」と。彼は少し困ったように笑って、「今年は10月1日からなんですよ」と言った。マニュアルどおりの丁寧さの奥に、ほんの少しだけ申し訳なさそうな響きがあった。こちらが悪いわけでもないのに、なぜかその声のトーンに救われた。
10月1日。手帳にはまだ何の予定も書かれていない、ただの水曜日だった。おでんにも解禁日があるということを、私はその夜はじめてちゃんと意識した。桜前線があるなら、おでん前線もあっていい。北から南へ、鍋の中の大根が煮えていく速度で季節が下りてくる、と考えると少しおかしかった。
外に出ると、思ったより風が涼しかった。9月も後半になれば当たり前のことなのに、半袖のままの二の腕がそれに気づくのに少し遅れた。網戸越しに聞こえていたはずの虫の声も、いつのまにか鈴虫寄りに変わっている。季節はこちらの都合を待たずに、勝手に先へ進んでいた。
急いでいたのは、たぶんおでんではなく私のほうだった。夏がようやく終わりかけているという実感がほしくて、何か目に見える合図を探していた。おでんの匂いはその合図として、ちょうどよかったのだと思う。合図がまだ来ていないと知って、拍子抜けした。夏を終わらせる許可を、コンビニの什器に求めていたなんて、われながら気が早い。
…と、ここまで書いて気づいたのだけれど、私はいつもこうやって、季節の変わり目を誰かに認定してほしがっている。金木犀が香ったら秋、初雪が降ったら冬、というふうに。区切りがないと落ち着かないのは、たぶん自分の中の切り替えが下手だからだ。だらだらと夏を引きずったまま、心だけが秋を急いでいる。
帰り道、自販機の灯りが妙に眩しく感じた。まだ冷たい麦茶を選んでしまうくらいには、体は夏をやめていない。頭では涼しさを喜びながら、舌はまだ夏の続きを飲んでいる。この時期はいつもそうだ。着るものも、飲むものも、気持ちも、全部がちぐはぐなまま並行して走っている。
去年の手帳を見返すと、10月3日に「おでん、初」とだけ書いてあった。何を思ってこんな一言をメモしたのか、自分でもよくわからない。ただ、その3文字だけで去年の秋の匂いがふっと蘇ってくるのだから、記録というのはばかにできない。今年もどこかに、同じくらい意味のない一行を残すのだろう。
考えてみれば、おでんは待たせ上手な食べ物だ。大根もたまごも、煮込まれるほど味がしみる。急かして早く出しても、たぶん美味しくない。10月1日という日付には、たぶんそういう店側の理由もあるのだろう。味がしみるのを待つ、というのは、こちらが焦っても仕方のない類の時間だ。
季節の変わり目は、いつもこの「まだ早い」の連続でできている気がする。衣替えもまだ早い、暖房もまだ早い、年賀状もまだ早い。急かされているのはこちらのはずなのに、実際に急かされているのは季節の方だったりする。それを間違えると、ただ一人で焦って、一人で拍子抜けする羽目になる。今夜の私みたいに。
あなたも今日、暑いのか涼しいのかよくわからないまま、それでも一日をちゃんと過ごした。半袖のまま帰るか、上着を羽織るか、そんな小さな判断をいくつも重ねながら。
10月1日になったら、また同じ店に寄ってみようと思う。だしの匂いがしたら、たぶん卵を一つだけ買う。それで夏が終わったことにする。ずいぶん頼りない儀式だけれど、これくらいのゆるさで季節を送るのが、案外ちょうどいいのかもしれない。
まだおでんの並んでいない棚を思い出しながら、家に着いて麦茶を注いだ。氷はもう溶けかけていた。それでも十分に冷たくて、9月の夜にはちょうどよかった。焦らなくても、季節はそのうち勝手に鍋の湯気を連れてくる。それまでは、この中途半端な涼しさを、もう少し味わっていてもいいのだと思う。
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