9月1日、8時15分。駅まで歩く道の途中に小学校があって、その日はいつもより少しだけ人だかりができていた。校門の前で親が子どもの後ろ姿にスマホを向けている。ランドセルはまだ真新しさが残っている子と、もうくたびれて肩のあたりが白っぽくなっている子とが混ざっていた。8月いっぱい留守にしていたその建物から、久しぶりにチャイムが鳴った。
キーンコーンカーンコーン、という、あの音。特に大きいわけでも美しいわけでもない、ただの電子音のはずなのに、なぜか足が止まった。セミはまだ元気に鳴いていて、アスファルトの照り返しも夏のままだったのに、その音だけが妙に季節を先取りしていた。二学期が始まる、という合図。
わたしはもう何十年もあの学校に通っていないし、通知表をもらう予定もない。なのに体のどこかが、反射的に姿勢を正そうとした。これは何だろう。癖というより、もっと古い層に埋め込まれた反応のような気がする。パブロフの犬、という言葉が浮かんだけれど、犬にされるほどベルを鳴らされた覚えもないのに、なぜかしっかり覚えている。
二学期の始業式は、いつも体育館が蒸し暑かった。窓は開いているのに風は入らず、校長先生の話は毎年やたら長く、しかも去年と同じことを言っている気がした。読書感想文を出したかどうかの記憶があいまいなまま、隣のクラスの誰かが泣いていたのを覚えている。夏休みの絵日記が、8月最後の三日間だけ異様に丁寧な字で書かれていたのは、わたしだけの話ではないと思いたい。
あの頃の焦りと、いまの焦りは、たぶん形が違う。宿題も通知表もない代わりに、月曜の朝には未読のメールが積もっている。上司から「ちょっといい?」とだけ届いた一通に、心臓がきゅっと縮む感覚は、あのチャイムに似ている気がする。呼ばれる、という予感だけで体が先に反応してしまう。中身を確認する前から、もう身構えている。
……と、ここまで書いて気づいた。あの頃も、いまも、わたしはずっと「呼ばれること」に敏感なだけなのかもしれない。チャイムそのものが怖いのではなく、その音のあとに何が起きるか分からないことが、いつまでも落ち着かないのだと思う。二学期の始まりも、月曜のメールも、正体は同じ、次に何が来るか分からない、というだけの音だ。
小学校の前を通り過ぎながら、去年の夏休みの絵日記のことを考えた。プールに行った日の絵は水色のクレヨンで塗りたくられていて、セミ取りの日は虫かごの網目まで丁寧に描いてあった。ああいう夏は、もう二度と来ない。来年もセミは鳴くし、プールも開くけれど、あの年の、あの湿度の、あの退屈さの夏は、二度と繰り返されない。誰も戻してくれない。
そう思うと、あのチャイムが少しだけ切なく聞こえてくる。呼ばれることに怯えていたはずなのに、いま思えばあれは、まだ夏休みが完全には終わっていない証拠でもあった。始業式の日の午後には、まだ半日ぶんの夏休みが残っていた気がする。プールカードのハンコは、もう押してもらえないけれど。
駅に着く頃には、チャイムの記憶はだいたい薄れていた。ホームには制服姿の高校生が数人いて、彼らはスマホの画面を見ながら、特にチャイムに反応した様子もなかった。当たり前だ。呼ばれ慣れている人は、いちいち足を止めたりしない。反応してしまうのは、たぶんもう呼ばれていない人のほうなのだと思う。
電車の中で、今日も何かに呼ばれるのだろうな、と思った。会議の招集メール、既読スルーの通知、LINEのグループの新着。どれも学校のチャイムほど正直な音は立てないけれど、体は似たように縮こまる。わかっているのに、直せない。呼ばれることと身構えることが、いつのまにか一体になってしまっている。
あなたも今日、何かの通知に一瞬びくっとしたかもしれない。それでも家を出て、駅まで歩いて、ここまで生きてきた。それだけで、今日はもう十分がんばったと思う。
二学期のチャイムがなぜ懐かしいのか、正直まだよく分かっていない。宿題が嫌いだったはずなのに、あの音を聞くと胸のどこかがきゅっとなる。矛盾している。矛盾しているまま、たぶんこの先も、9月1日のたびに同じように足を止めるのだろう。
解決はしない。宿題も通知表もない大人の生活で、あの反射だけが残り続けるのは、少し滑稽でもある。だけどその滑稽さごと、自分だと思うことにしている。呼ばれるたびに縮こまる自分を、今年はもう少しだけ大目に見てやろうと思う。
夕方、帰り道にもう一度あの小学校の前を通った。校庭には誰もおらず、夕陽だけがブランコの影を長く伸ばしていた。チャイムはもう鳴らない。当たり前の静けさが、なぜか今日はやけに優しく感じられた。
がんばりすぎなくていい。呼ばれたら少し身構えてしまう、それだけの体でも、ちゃんとここまで歩いてきた。それでいいのだと思う。
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