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盆踊りの潓、去年より小さくなっていた

8月13日、19時20分。ベランダに出ると、隣の公園のほうから太鼓の音が届いていた。ドン、ドン、ドン、と三つで一区切りになる、あの音。麦茶のグラスを片手に、音のする方角をしばらく見ていた。行くつもりはなかった。でも気づいたら、サンダルを履いて玄関を出ていた。

公園までは歩いて七分。着いたのは19時50分だった。提灯が数えたら32個、電柱から電柱へ渡してあって、風もないのにゆっくり揺れていた。焼きそばの屋台から油の匂いが流れてきて、それだけでもう夏だと思った。500円で焼きそば、300円でラムネ。値段は毎年これくらいだったはずで、たぶん今年もそうだった。

で、潓を見た瞬間、あれ、と思った。小さい。子どもの頃、これに登る大人たちを見上げていた気がするのに、今日のそれは、見上げるというより、ちょっと目線を上げるくらいの高さだった。太鼓を叩いているおじさんの顔が、はっきり見える。マイクを持って音頭を取っている人の、汗のかき方まで見える。こんなに近かったのか、と思った。

東京音頭が流れて、輪ができていた。輪の一番外側、三重目くらいのところに、見物客が立っている。私もそこに立った。踊るつもりはなかった。踊りたいわけでもなかった。ただ、音のするところに立っていたかった、というだけだった。それだけの理由で人が集まる場所があるのは、悪くないと思う。

隣に立っていた小学生くらいの女の子が、母親に「これ、いつまで踊るの」と聞いていた。母親は「わかんない、太鼓の人が飽きるまで」と答えていて、それがなんだかよかった。誰も終わりの時間を決めていない祭りというのは、今の私の暮らしにはもう存在しない種類の時間だ、と思う。

潓が小さく見えたのは、たぶん私が大きくなったからだろう。当たり前のことなのに、その場に立つまで思い出さなかった。子どもの頃の記憶というのは、実際のサイズを覚えているわけではなくて、その時の自分の身長で見上げた角度ごと保存されている。だから何十年ぶりに同じ場所に立つと、景色そのものが縮んで見える。縮んだのは景色じゃなくて、こっちの背丈のほうなのに。

ヨーヨー釣りの屋台に、小さな行列ができていた。一回200円、こより一本、破れたらそれで終わり。並んでいる子たちの手には、すでに破れたこよりの残骸が握られている。当たったヨーヨーの数より、破れたこよりの数のほうがずっと多いのだろう。それでも並んでいる。何かがすぐに手に入らないことに、まだ慣れていない年頃なのかもしれない。うらやましいとまでは思わないけれど、少し眩しかった。

焼きそばを買って、ベンチに座って食べた。ソースの味は毎年同じで、こういうものが変わらないことに、ほっとする自分がいる。物価が上がったとか、材料費がとか、そういう話は考えないことにした。今日だけは500円で焼きそばが食べられる夜、それでいい。

盆踊りの輪の中に、私と同じ小学校だったはずの人がいた気がしたけど、確信はない。20年近く前の顔と今の顔は、正直そんなに簡単には結びつかない。声をかけようか迷って、結局かけなかった。踊りの輪はどんどん回っていくから、次に近づいてきた時にはもう別の顔になっていた。それで、いいのだと思う。会わなくなった人にもう一度会う場所として、盆踊りの輪は少し忙しすぎる。

21時を過ぎると、潓の上のおじさんが「あと二曲で終わりです」と言った。誰も拍手もブーイングもしなかった。ただ、輪の速度がすこし上がったように見えた。終わりが決まった途端に、みんな少し本気で踊り始める、というのは人間らしくていいなと思う。私はずっと三重目に立っていたけれど、それでも十分に、その場にいた気はした。

帰り道、提灯の明かりが背中から遠くなっていくのを、何度か振り返って確認した。来年もこの場所で同じ祭りがあるかどうかは、誰にもわからない。運営してくれている町内会の人たちも高齢化していると聞くし、太鼓を叩いていたおじさんが来年もあのおじさんかどうかもわからない。同じ夜は、二度とこない。当たり前のことなのに、帰り道で急にそのことがのしかかってきた。

家に着いて、玄関でサンダルを脱いだら、片方の裏に小さな石が挟まっていた。それを取りながら、今日は特に何かが解決したわけでもないな、と思う。潓が小さかった理由もわかったし、わからなかった。景色が縮んだのは自分のせいだと納得したはずなのに、それでも少し、寂しさは残っている。わかっているのに、なくならない。それでいいのだと、たぶん今は思うしかない。

冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注ぎながら、太鼓の音の余韻がまだ耳の奥にある気がした。実際には、もう何も聞こえていない。ただの静かな部屋だ。でも、しばらくその静けさの中に、余韻だけを置いておいた。

あなたも、今日どこかで夏の音を聞いただろうか。蝉でも、風鈴でも、遠くの花火でも、なんでもいい。聞こえていたなら、それだけで今日はよく生きた日だったと思う。

盆踊りの輪に入らなくても、三重目に立っているだけでも、祭りには参加したことになる。たぶん暮らしもそういうもので、真ん中で踊れなくても、輪の外側に立っているだけで、十分にその夜の一部になれている。

来年、潓がまた小さく見えたら、それはまた自分が少し変わった証拠だと思うことにする。縮んでいく景色を、悲しむより先に、面白がれるくらいの余裕だけは、持っていたい。

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