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スーパーに、もう盆の花が並んでいた

17時40分、いつものスーパーの入口に、ほおずきとみそはぎの束が出ていた。菊も三色まとめて、透明のフィルムに包まれている。値札に「お盆用」と手書きで書いてあった。まだ7月26日だ。カレンダーを頭の中でめくって、お盆まであと二週間以上あることを確認して、それでも花はもう並んでいる。

季節を先回りするのが商売のうまさなのは知っている。8月におでんが出るし、9月にはもうおせちの予約が始まる。そういうものだと思っている。ただ、盆の花だけは、先回りされると少しうろたえる。おでんは早くても腹が減るだけだけれど、盆の花は、こちらの準備ができていないところに、いきなり日付を差し出してくる。

ほおずきは、袋みたいなオレンジの中に実がひとつ入っている。子どもの頃、あの実の中身を針で抜いて笛にできると誰かに教わって、何度もやろうとして、一度も成功しなかった。だいたい途中で皮が破ける。破けたほおずきを持って半泣きになっていたわたしに、祖母が「そんなもんよ」と言った気がするけれど、この記憶は都合よく作られている可能性がある。

祖母が亡くなって、この夏で五年になる。五年、と数字にすると、思ったより長い。まだ実家に帰るかどうかを決めていない。決めていないというより、決めるという作業をずっと後ろにずらしている。母からの連絡にも、まだ「どうしようかな」としか返していない。五年というのは、悲しみが薄くなるには足りて、忘れるにはぜんぜん足りない、中途半端にちょうどいい長さだ。泣かなくなった代わりに、こういうスーパーの入口みたいな、まったく身構えていない場所で急に足を止められるようになった。

結局、花は買わなかった。カゴに入っていたのは、もやしと、卵と、切らしていた醤油の予定だった。花の前で20秒くらい立ち止まって、それから通り過ぎた。買う予定なんてもともとなかったのだから、通り過ぎるのが当たり前のはずなのに、通り過ぎた自分に少し引っかかりが残った。

店内では、この時期おなじみの間延びしたBGMが流れていた。よく聞くと歌詞は秋の歌だった気がする。レジの女性は、もやしのバーコードが二回読み取れなくて、三回目で通ったときに小さく「よかった」と言った。誰に言ったわけでもない、こぼれた感じの声だった。あれがその日いちばんはっきり聞こえた言葉だったかもしれない。

帰り道でその引っかかりの正体を考えた。買う気がないなら、値段は見ないはずだ。でもわたしは値札を見た。598円、税込。見たということは、ほんの一瞬でも、買う側の頭になっていたということだ。買わないと決めたのではなくて、買う理由をうまく言葉にできなかっただけかもしれない。仏壇のない部屋に、花だけ置いてどうするのか、と自分に聞かれたら答えられない。

レジを出てから、醤油を買い忘れたことに気づいた。醤油を買うために寄ったのに、盆のことを考えて、醤油を忘れて帰ってきた。目的を完全に見失っている。しかももやしと卵はちゃんと買っている。何をしに行ったのか、いまだにうまく説明できない。

母からのメッセージは「今年はどうする?」の一行だけだった。三日前に届いて、既読はその日のうちにつけている。返事をしていないのに既読だけついている状態を三日続けるのは、たぶん一番よくない。分かっているのに、開くたびに画面を上に少しスクロールして、それから閉じる。返事の文面は頭の中で四回くらい書いた。四回とも送らなかった。

実家の仏壇のことは、細かいところまで覚えている。りんを鳴らすと、思ったより長く音が残る。棚のいちばん手前に、祖母が使っていた老眼鏡がまだ置いてある。度が合わなくなってからも捨てなかったやつだ。誰も片づけないまま五年たった。片づけないのは、たぶん誰も片づけたくないからだと思う。誰かが「これ、もういらないよね」と言えば済む話なのに、その一言を言う役をみんなが避けている。避けているうちに、老眼鏡はもう仏壇の一部みたいな顔をして、そこに収まってしまった。片づけられなかったものが、いつのまにか正式な備品になる。

盆というのは、いない人が帰ってくることになっている期間だ。本気で信じているかと聞かれたら、うまく答えられない。ただ「そういうことになっている」という取り決めがこの国に用意されていることに、毎年すこし助けられている。会えない相手のことを思い出していい期間が、あらかじめ決められている。自分で理由を作らなくていいのが、ありがたい。ふだんの火曜日の夜に急に思い出して手を止めていると、自分でもどう扱っていいか分からなくなる。でも8月の中旬なら、それは行事だということになる。決まりごとというのは、たぶんそういうときのために作られている。

一度だけ、新幹線の予約画面を開いたことがある。8月13日の朝の便を検索して、指定席の空席状況が表示されるところまで進んで、そこで閉じた。買わなかったのではなく、押せなかった。押すという動作そのものが重かった。あの画面は、押した瞬間に「帰る人」になってしまう。まだどっちでもない状態のまま、もう少しだけいたかったのだと思う。

家に帰って、もやしを茹でながら、なぜか祖母のカレーのことを思い出した。特別においしくはなかった。にんじんが大きすぎて、いつも半分残した。ルーは中辛のはずなのに甘かった。名作でもなんでもないカレーなのに、五年たっても思い出すのはそれだ。もっと立派なことをたくさん言ってもらったはずなのに、脳が保存したのはにんじんの大きさだった。人を思い出すときに出てくるのは、いつもこういう、どうでもいい欠点のほうだ。よかったところを思い出そうとすると、なぜか言葉が急に他人行儀になる。にんじんが大きすぎた、というのは、わたしの中ではかなり強い愛情の証明になっている。

帰らない年があってもいいと思う。花を買わない夏があってもいい。スーパーの入口で20秒立ち止まったなら、その日はもう、じゅうぶんに何かをしている。手を合わせなくても、思い出したという事実は、たしかにそこで起きている。

来年もあの花は、たぶん7月の終わりに並ぶ。ほおずきの色は毎年同じ濃さのオレンジで、値札の手書きの字も同じ人が書いているのだろう。並ぶたびにわたしは少しうろたえて、また通り過ぎるかもしれない。ただ、うろたえられるうちは、まだちゃんと覚えているということだ。うろたえなくなったときのほうが、たぶんさびしい。

結局、帰るかどうかはまだ決めていない。決めないまま、たぶん8月に入っていく。決めても決めなくても盆は勝手に来て、勝手に過ぎていく。過ぎたあとで、ああ今年も花を買わなかったな、と思うところまで含めて、たぶんもう毎年の行事みたいなものになっている。それでも来年、また立ち止まるのだろう。

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