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自転車のサドル、触れないほど熱かった

8月17日、午後2時40分。駅前の駐輪場で、いつものように自転車のサドルに手を置いたら、「あ」と声が出た。声というより、ほとんど反射だった。手のひらが一瞬だけ、サドルの表面から拒否されたような感覚があって、それから遅れて熱いという情報が頭に届いた。痛みより先に驚きが来る、あの独特の順番。

駐輪場に日陰はほとんどなく、私の自転車は今日もいちばん端の、いちばん日差しの強い場所に停まっていた。ハンドルもすでに熱を持っていて、グリップを握る手の力がついつい弱くなる。金属とゴムが混じったような、油っぽい匂いが立ちのぼる。蝉の声はもう遠くから聞こえるだけで、この一角にいるのは私と、放置された黒い傘立てと、干からびかけた朝顔の鉢だけだった。

サドルに座れず、しばらく自転車を押して歩いた。押している間に、去年の夏も同じことをした気がしてきた。いや、去年もこのサドルに座れなくて、コンビニでハンドタオルを買って敷いた記憶がある。あのタオルはどこに行ったのだろう。たぶん洗濯機の奥で、いまも誰かの家事に紛れて生きているのだろう。学習能力というものが、私にはどうも一年で蒸発してしまう仕組みになっているらしい。

結局、駐輪場の隅にあった段ボールの切れ端をサドルに乗せて、その上に腰を下ろした。座った瞬間、熱はまだ少し残っていたけれど、さっきの「触れない」ほどではなかった。段ボール一枚で、こんなに違うのか。ただの厚紙が、こんなに頼りになるとは思わなかった。

ペダルを踏みながら、ふと思ったのは、熱さって最初の一瞬がいちばん強いということだった。触れた瞬間はびっくりするほど痛いのに、しばらくすると身体のほうが慣れてくる。座り続けていれば、いつのまにか「まあこんなものか」という顔になっている。これは、頑張りすぎることにもすこし似ているだろうか。いや、似ていないかもしれない。頑張りすぎは、慣れてしまうことのほうが厄介な気がする。

たとえば、仕事の締め切りに追われている時期、最初の数日はちゃんと「しんどい」と思えているのに、それが一週間、二週間と続くと、しんどさに慣れてしまって、自分がどれだけ無理をしているのか感覚が鈍くなる。サドルの熱さなら、段ボールを一枚挟むだけで済むのに、頑張りすぎには挟むものがなかなか見つからない。見つかったとしても、それを「使ってもいい」と自分に許可するまでに、また時間がかかる。

自転車は結局、駅から家まで12分の道のりだった。途中、信号待ちで足をついたとき、アスファルトの熱がサンダルの裏から伝わってきて、これも去年と同じだったなと思う。同じ道、同じ暑さ、同じように蒸発する集中力。でも去年のあの熱さの記憶は、もう正確には戻ってこない。覚えているのは「熱かった」という言葉だけで、あの日の本当の温度は、たぶんもう誰の手のひらにも残っていない。

家に着いて、玄関の三和土に自転車のカギを置いた音が、いつもより大きく響いた気がした。何もかもが暑さのせいで少し大げさに感じられる日だった。冷蔵庫を開けて、麦茶ではなく麦茶の隣にあった氷を先に口に入れた。歯にしみて、目の奥がきゅっとなる。人間、水分より先に冷たさを欲しがる日がある。

サドルカバーを買おうかと、スマートフォンで検索して、レビューを三件だけ読んで、結局そのタブを閉じた。買う気はある。でも本気で買う気があるかというと、正直わからない。段ボールでどうにかなっているうちは、たぶん買わない。人はどうにかなっているものにお金を払わない生き物なのかもしれないし、私は単に面倒くさがりなだけかもしれない。

こうして書きながら気づいたのだけれど、私は「熱い」と気づいた瞬間には引き受け方を知っている。段ボールを挟む、日陰を探す、タオルを敷く。それなのに、心の熱さに関してはその引き受け方をよく忘れる。忙しさに触れて「あ」と声が出た瞬間があったはずなのに、その驚きをすぐに見失って、そのままサドルに座り続けてしまう。

駐輪場の朝顔の鉢は、今日も花が一つも咲いていなかった。水やりを怠っているわけではないはずだけれど、暑さに疲れて咲く気力を失っているのかもしれない。花にも咲かない日があるのだから、人間の私に休む日があってもいいはずだと、勝手に励まされた気持ちになる。都合のいい解釈だとわかっている。それでも、こういう都合のいい解釈が、今日をなんとか持たせてくれることもある。

夕方、涼しくなった頃にもう一度サドルに手を置いてみたら、もう熱くはなかった。触れる。座れる。何の準備もいらない。あの午後2時40分の熱さはどこに行ったのだろうと思うくらい、あっけなくおさまっていた。熱は、いつか必ず冷める。それだけは、今日確かめられた。

あなたも今日、暑い中をよく出歩いた。信号待ちの数十秒、サドルに手を置いた一瞬、そういう小さな「あ」を、たぶんいくつも見過ごしてきたはずだ。見過ごしたこと自体は、責めなくていい。段ボール一枚で済むことも、まだ見つかっていないだけかもしれないから。

熱いものには、驚いてから慣れて、それから冷める順番がある。頑張りすぎることにも、同じ順番があるといいのだけれど、そこはうまくいかないことが多い。それでも今日、サドルに触れて「あ」と声を出せたことだけは、悪くなかったと思う。少なくとも、まだ気づける自分がいる。それだけで、今日のところは十分だ。

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