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お風呂の温度、いつのまにか41度になっていた

浴室のドアを開けると、いつもより白い湯気が待っていた気がした。23時18分。壁の給湯パネルの緑色の数字は「41」と表示されていて、その下に小さく「給湯」の文字が浮かんでいる。押した覚えのないボタンの数字だった。

タイルの床はいつもより熱く感じて、足の裏がじわりと反応する。シャワーの水圧の音は変わらないのに、湯気の立ちのぼり方だけがどこか濃い。鏡が曇るのが、8月よりずいぶん早くなった。曇り方にまで季節があるとは、これまで気にしたこともなかった。

8月の頭は確か38度で入っていた。それでも「ぬるい」と感じることがあって、水しか出ていないシャワーヘッドに向かって「早くしろ」とひとりごとを言っていたのを覚えている。あの頃の自分は、いま思えば湯船に浸かることさえ暑苦しいものと考えていたはずだ。

それがいつの間にか41度。誰かに命じられたわけでもないのに、体が勝手に温度を上げていたらしい。給湯パネルの数字は、私より先に季節の変わり目を知っていたことになる。数字はただそこにあるだけなのに、こちらが後から気づかされる形になっているのが、なんだかちょっと悔しい。

実家にいた頃、母の入浴の温度はいつも42度だった。子供の頃はそれが熱すぎて、湯船に入るたびに「あちっ」と声を出していた記憶がある。母はそれを聞くたびに笑って、「そのうち平気になるよ」と言っていた。あの時は信じていなかったけれど、いま自分がひとりで暮らす部屋の給湯パネルは、静かにその予言を裏付けている。

銭湯の湯温は、たしか45度前後だったと思う。行きつけだった近所の銭湯はもう随分前に廃業してしまって、跡地はいまコインパーキングになっている。あの熱さに肩まで浸かって「うっ」と唸っていた常連のおじさんたちは、いまどこの湯船に浸かっているのだろう。考えても仕方のないことを、湯気の中で考えてしまう。

湯船に浸かりながら、今日あった何でもないことを思い出す。定時で切り上げたはずなのに、なぜか「すみません、お先に失礼します」と誰にともなく謝っていた自分。あれは謝る場面だっただろうか。いや、たぶん違う。ただの癖だ。癖というのは温度と同じで、いつの間にか上がったり染みついたりしているものらしい。

湯を少し熱くしすぎたのか、10分もしないうちにのぼせてきた。顔だけ真っ赤にして浴室から出て、扇風機の前に座り込む。せっかく涼しくなってきたと思ったら今度は自分で熱を作っている。夏に文句を言っていたはずなのに、いざ涼しくなると名残惜しくてお湯で無理やり熱をたしている。矛盾しているとは思うけれど、直そうとも思わない。

母に電話をして、そんな話をしてみた。「41度にしたら熱かった」と言うと、母は「それくらいでちょうどいいのよ」とだけ返して、あとは近所のスーパーで買った梨の話に移っていった。会話というのは湯温と同じで、ちょうどいい温度になるまで少し時間がかかるものかもしれない。

…と、ここまで書いてふと気づいた。私はさっきから「涼しくなった」と何度も書いているけれど、日中はまだ半袖で汗をかいている。9月の半ばというのは、体感と暦がずれたまま並走している時期なのだ。涼しさを喜んでいいのか、まだ暑さを恨んでいいのか、自分でもよくわからないまま毎晩湯船に浸かっている。

湯温を上げるという行為は、たぶん体が「もう夏じゃなくていい」と勝手に判断した結果なのだと思う。頭ではまだ夏の名残を惜しんでいるのに、体はさっさと次の季節に足を踏み入れている。頭と体の足並みがそろわないのは、いつものことだ。それでいいのだろう、たぶん。

あなたも今日、湯船に浸かっただろうか。浸からなかったとしても、それでいい。お湯の温度を意識するくらいには、ちゃんと一日を過ごせたということだから。

給湯パネルの「41」の表示を、明日には気にしなくなっているかもしれない。もう少ししたら43度になって、その頃には金木犀の匂いがしているはずだ。今日という日の湯加減は、今日しか味わえない。そう考えると、たかが1度の違いが、少しだけ愛おしくなる。

結局、湯温を戻すことはしなかった。熱すぎたと文句を言いながら、翌日もまた41度で入っている自分がいる。わかっているのに、変えられない。それでも、そのくらいの矛盾は抱えたまま生きていけばいいのだと、湯気の向こうでぼんやり思う。

季節はこうして、誰かの温度設定をひとつずつ書き換えていく。気づいても気づかなくても、それは進んでいく。だから今夜も、少し熱いお湯にただ浸かる。それだけで、今日という日はもう十分頑張ったことにしていいのだと思う。

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