8月10日、朝6時半。ベランダに出て水やりをしようとしゃがんだら、朝顔の蔓が鉢の支柱を通り越して、手すりの隙間から外に出ているのに気づいた。目で追っていくと、蔓は隣の家との境目にある柵まで届いていて、そこに巻きついて、小さな葉をひとつ広げていた。うちの鉢からは、もう1メートル以上離れている。
水をやりながら、しばらくその葉を見ていた。朝顔にとって、うちの敷地も隣の敷地も関係ないのだろう。伸びられる方向に伸びて、たまたま柵があったから巻きついただけ。そこに迷いや遠慮のようなものは、たぶんひとつもない。
土のにおいと、少し湿った朝の空気。どこかで一匹だけ、力尽きたように鳴き始めた蝉の声。ここ数日ずっとこの時間に水をやっているけれど、毎朝、蔓の先端が少しずつ違う場所にある。昨日はまだ届いていなかったのに、今日はもう柵の向こうだ。夜のあいだに、いったい何が起きているのか。見ていないところで勝手に育っている、というのが、なんだかちょっと悔しいような、うれしいような気持ちになる。
小学校の理科で朝顔の観察日記をつけさせられたことを、ふと思い出した。毎日決まった時間に、鉢のところへ行って、葉の枚数と蔓の長さを記録する。あれは正直、けっこう面倒なノルマだった。夏休み前半はまじめに書いていたのに、後半になると2日に1回、3日に1回とサボりが増えて、最後は8月30日にまとめて「たくさん伸びました」とだけ書いた記憶がある。あの朝顔は、私がサボっているあいだも、私の観察と関係なく伸びていたはずだ。
そう考えると、いま目の前にあるこの蔓も、私が見ていようがいまいが、同じペースで伸びていたのだろう。水をやるとか、支柱を立ててやるとか、こちらにできることはあるけれど、伸びる方向そのものは、こちらの都合ではどうにもならない。柵のほうへ行ってほしいと思って伸ばしたわけではなく、たまたまそちらに光が回ってきたから、あるいはたまたま風がそちらへ押したから、そうなっただけなのかもしれない。
仕事でも、似たようなことがある気がする。今月は資料作りが思うように進まなくて、23時近くまでパソコンの前に座っていた日が3日あった。がんばれば進むはずだと思って粘っていたのに、翌朝見返すと、粘った時間の分だけよくなっているわけでもなかった。むしろ昼間の30分でさらっと書いた部分のほうが、あとで読み返して悪くなかったりする。がんばった時間と、実際に伸びた分とが、いつもきれいに比例するわけではない。わかっているのに、毎回同じように粘ってしまうのだけれど。
朝顔の蔓を見ながら、自分は伸びる方向をコントロールしようとしすぎているのかもしれない、と思った。……いや、違うだろうか。伸びる方向を決めようとしているというより、伸びていないことに焦っているだけかもしれない。柵まで届いた蔓を見て、うらやましいと思っている時点で、私はやっぱり「伸びること」そのものを、何かのゴールみたいに扱っている。朝顔にゴールなんてないのに。
水やりを終えて、柵のところまで行ってみた。近くで見ると、その葉はまだ手のひらより小さくて、心もとない緑をしている。隣の家のベランダには誰もいなくて、洗濯物だけが干してあった。もし向こうの家の人がこの蔓に気づいたら、切ってしまうかもしれないし、そのままにしておいてくれるかもしれない。それも私にはどうしようもないことで、少し落ち着かない気持ちになる。自分の鉢からはみ出した蔓の行く末を、他人の家の都合に委ねている、というのはなんだかおかしな状況だ。
翌朝、様子を見に行くと、蔓はまだそこにあった。切られていなかった、というだけのことに、思いのほどほっとした自分に、少し笑ってしまう。たかが蔓一本のことで、朝からこんなに気にかけている。仕事の資料は放っておくとどんどん気が重くなるのに、朝顔の蔓のことは気にかけるほど気が軽くなる。同じ「気にする」でも、こんなに違うものなのか。
そういえば、去年のこの時期は、朝顔を育てていなかった。育てるかどうかも、その年の気分次第で、去年は花より先に自分の余裕がしぼんでいた。ことしは4月にホームセンターで種を買って、そのまま5月に蒔いて、思ったより手をかけずにここまで来た。手をかけていないぶん、伸びていく姿がまっすぐ目に入ってくるのかもしれない。
柵まで届いた蔓は、その後もう一段伸びて、隣の敷地の物干し竿の支柱に軽く触れるところまで来た。さすがにこれ以上は、と思って、その日は蔓の向きだけそっとうちの手すり側に戻した。無理に引っ張ると折れそうだったので、本当に少しだけ。それでも次の朝には、また同じように柵のほうを向いていた。私が向きを変えても、朝顔は自分の伸びたい方に伸びる。ここまで来ると、なんだか意地を張り合っているようで、こちらが折れたほうがいいような気もしてくる。
8月の終わりには、この蔓もどこかで枯れていくのだろう。花はもう毎朝2つか3つしか咲かなくなっていて、萎んだ花がらを摘み取る作業のほうが、水やりより時間がかかるようになってきた。伸びていく季節と、しぼんでいく季節が、鉢ひとつの中で同時に進んでいる。柵まで届いたこの蔓も、あとひと月もすれば茶色くなって、誰かに片付けられて終わるはずだ。それでも今朝は、まだ小さな葉を一枚、隣の家の方角に向けて広げている。
自分の伸びる速さや方向を、誰かと比べて焦る日が、正直まだある。あの人はもう柵の向こうまで届いているのに、自分はまだ鉢の中で丸まっているような気がする日が。それでも朝顔の蔓を見ていると、伸びる、伸びないは、思っているよりずっと、こちらの意志の外側で決まっているものなのかもしれない、と思う。水をやることと、支柱を立てることくらいしか、こちらにはできない。
あなたも今日、朝のうちに何かしら、水をやるようなことをしたはずだ。誰かに連絡を返したとか、洗濯物を干したとか、それだけのことかもしれないけれど。伸びた分が見えなくても、たぶんそれで十分だった日だと思う。
隣の家の柵にある、あの小さな葉が、明日もまだそこにあるといい。切られていたら切られていたで、それもまた、こちらにはどうしようもないことなのだけれど。
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