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網戸の穴、結局そのままにしている

7月14日の23時40分、麦茶を注ぎに立ったついでに網戸を見たら、右下の角に小さな穴が空いていた。5ミリくらい、爪の先で突いたような形。いつからあったのか、まったく覚えがない。

その日はやけに蒸し暑くて、扇風機を首振りにしたまま、風の通り道に体をずらしながら座っていた。ジジ、と網戸の穴のあたりから何かが入ってくる気配がして、見ると案の定、小さな蛾が部屋の中を旋回していた。ああ、あそこから、と思ったけれど、立ち上がるのも面倒で、しばらく蛾と扇風機の風だけを眺めていた。

翌日、駅前のホームセンターで網戸補修シートというものを買った。600円くらいだったと思う。穴に貼るだけ、と書いてあるパッケージの説明はいたって簡単で、レジのお姉さんも特に何も言わず、ただのペン一本みたいな顔で会計してくれた。あれ、拍子抜けするほど普通の買い物だった。世界的な大事件かのように穴を発見した自分が、少し恥ずかしくなった。

家に帰って、シートの封を切って、穴の前にしゃがみこんだ。貼ろうとした。貼ろうとしたのだが、なぜか手が止まった。理由なんてない。ただ、なんとなく、今じゃない気がした。シートは棚の隅、電池と輪ゴムと期限切れの絆創膏が同居しているあの場所に置かれ、そのまま一週間が経った。

祖母の家にも、こういう網戸があったのを思い出す。夏休みに泊まりに行くと、縁側の網戸のどこかに必ず小さな穴が空いていて、そこから蚊が一匹だけ、決まって夜中に入ってきた。祖母はそれを追い払うでも直すでもなく、「まあ、一匹くらいはね」と言って、蚊取り線香に火をつけるだけだった。子どもの私は、なんでちゃんと直さないんだろうと不思議だったのだけど、今になってみると、あの「まあ」の軽さが、妙に沁みてくる。

穴を直さないまま生活できるのか、と自分でも思う。虫は入るし、多少は暑い空気も逃げる。効率で言えば、明らかに直したほうがいい。わかっている。わかっているのに、シートは棚の中で、絆創膏と一緒に静かに眠り続けている。

…と、ここまで書いて気づいたのだけど、私はたぶん、穴そのものより「直さなきゃ」という気持ちの重さのほうを、なんとなく持て余しているのかもしれない。やることリストに小さくメモした「網戸」の三文字を見るたび、少しだけ胃のあたりが重くなる。直っていないという事実より、直していない自分を見張られているような、そんな感覚。

8月にはこの家を出るかもしれない、という話が実はある。契約更新の時期で、更新するかどうかまだ決めていない。もし出るなら、穴なんて直さなくていいわけで、そう考えると余計に手が動かなくなる。直す意味、あるんだろうか。いや、意味がなくても直したほうがいいことなんて、世の中にはいくらでもある気がする。歯磨きだって、明日死ぬかもしれないのにやるわけだし。……なんの話をしているのか、自分でもよくわからなくなってきた。

夜になると、蛾か蚊かわからない何かが、時々あの穴から入ってくる。私はもう慣れてしまって、扇風機の首振りの音の中で、それをただ眺めている。捕まえようともしない。窓を全部閉め切って完璧に虫をシャットアウトした部屋より、こうして少し漏れている部屋のほうが、なぜか息がしやすい気もする。これは強がりだろうか。いや、案外、本音かもしれない。

セミの声が、家の前の欅でずっと鳴いている。あれもいつか、ふっと一斉に止む瞬間があって、その数秒だけ世界が耳鳴りみたいに静かになる。穴の空いた網戸越しに、その静けさを聞いていると、直さなかったことも直さなかったなりに、この夏の一部になっているような気がしてくる。来年の夏、この網戸がここにあるかもわからないのに。

あなたも今日、暑い中をよく歩いた。冷房の効いた電車や部屋を渡り歩くだけでも、体はちゃんと疲れている。穴をふさぐ元気がない日があってもいい。繕わないまま過ぎていくものが、この家にも、この体にも、たぶんいくつもある。

補修シートは、たぶんこのまま来月も棚の中にいる。それでいい、とまでは言い切れないけれど、それでも今夜はもう、麦茶を飲んで寝ることにする。網戸の穴から、遠くの誰かの家の風鈴の音が、かすかに聞こえてくる。

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